【要約】反応しない練習 | 人生を変える本 [まとめ・感想]
今回は仕事や人間関係、お金や忙しさなどに悩みを抱えてる方に向けて、その悩みを解消できる練習法を紹介してくれている本「反応しない練習」のまとめ、要約や感想を紹介します。
この本は私が読んだ本の中でもBEST3にはいる衝撃の思考法でした。疲れがとれない、いつももやもやするといった悩みやちょっとした事でイラついたり、ため息ばかりついてしまったりして悩んでいる方にオススメです。
実は我々人間は、あらゆることに対してムダに反応してしまっていることで、必要以上に疲弊しきってしまっているのです。
なお、この本の著者は草薙龍瞬さんという方で、中学中退後16才で上京し、大検を経て東大法学部を卒業し、その後出家されたという異例の経歴の持ち主の方です。現在はインドで仏教徒と社会改善NGOと幼稚園を運営し、日本では仏教の「本質」や仕事や人間関係、生き方全般にわたって伝える活動をされているそうです。
本当におすすめの本で、一人でも多く悩んでいる方に読んでいただきたいのですが、何度も読んでいる本ですので、いつでも自分でも見返せるようにするためでもあります。
それではいきましょう。
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【要約】エッセンシャル思考 | 人生を変える本
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目次
「反応しない練習」の要点
本書では、心のムダな反応を止めることで苦しみから解放された上で、自分の人生を信頼し「最高の納得」を目指す方法を説いてます。
さまざまな苦しみは、心の反応から起きるものです。この「反応」をなくすことで悩みや葛藤、嫉妬など負の感情をなくすことができます。
人間の三大煩悩といわれる貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒、つまり「貧欲(とんよく)・怒り・妄想」を今に伝わる仏教は戒めよと説くそうです。
しかし、ブッダが生きて言いた当時は実はこれらは「心の状態を理解するためのツール」だったという事です。
ブッダが到達した境地、”解脱”。これは自由と解放を意味します。
ブッダの教えとは「正しい理解によって、人間の苦悩から自由になる方法」のことだといえます。
どうやったら正しい理解をし、ムダな反応をなくす事ができるのか。本書で言われている具体的な方法や解説を見ていきましょう。
第1章 反応する前に「まず、理解する」
悩みを理解する
そもそも悩みの正体とはなんなのでしょうか?
職場にいる嫌な上司、言うことを聞かない部下でしょうか?高圧的な取引先でしょうか。
それともなかなか振り向いてくれない意中の異性でしょうか。些細なことですぐに怒り出す家族ですか?
頑張って働いても増えない銀行口座でしょうか。はたまた、伸びない身長や減らない体重でしょうか?
こうした中で生まれるくやしさ、怒り、失望、落ち込み、不安といった思いは、何故、どこからやってくるのか。解決できる考え方を知らないからいつまでも満たされなさが続きます。
実はブッダは超合理的です。悩みがある→悩みには理由がある→悩みには解決策がある。順をおって理解することでどんな悩みも確実に解決できるという思考です。
では一旦ここで、あなたが今抱えている悩みを、正直に心のままに思い浮かべてみてください。
何か思い当たることがありましたでしょうか。
なお、ブッタはそうした悩みを「八つの苦しみ」として表現しました。四苦八苦という言葉有名です。苦しみは古代インドの言葉で「ドゥッカ」(Dukka)と言います。「困難・妨害」(Du)と「埋められない虚空」(Kha)を併せ持つ言葉です。
- 生(しょう)
- 老(ろう)
- 病(びょう)
- 死(し)
- 怨憎会苦(おんぞうえく):恨みや憎しみを抱いてしまう人と出会うこと
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れなければならないこと
- 求不得苦(ぐふとっく):金や地位、名誉等求めるものを得られないこと
- 五蘊盛苦(ごうんじょうとく):思うようにコントロールできない人間の心
まず大切なのは、こうした日々感じている満たされなさを「ある」と認めてしまうこと、その潔さが仏教の特徴です。その現実を受け入れる必要はないです。「ある」ものを「ある」とはっきり自覚し理解するだけです。
では、悩みの正体とは何か、それは手放せない心、つまり「執着」です。
そして日頃悩ましい現実を作り出すのは“心の反応”です。つい腹を立ててしまったり、悪いことをしてしまったかもと不安を感じてしまう、、それこそが心の反応です。
少し思い返してみてください。反応してしまったなと思うことが必ずあるはずです。その反応こそが悩みの正体です。
なので私たちは「ムダな反応をしない」ことを常日頃心がけないといけないのです。
反応をつくりだす真の理由
“苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない「求める心」なのだ。“
“求める心”(タンハー)は、人の心の底に流れている、反応し続ける心のエネルギーの事です。この”求める心”は、発生後七つの欲求に枝分かれします。
- 生存欲(生きたい)
- 睡眠欲 (眠りたい)
- 食欲(食べたい)
- 性欲(交わりたい)
- 怠惰欲(楽をしたい)
- 感楽欲(音やビジュアルなど感覚の快楽を味わいたい)
- 承認欲 (認められたい)
“求める心”がある→七つの欲求を生み出す→その欲求に突き動かされて反応する→欲求を満たす喜びやかなわない不満が生まれる
こうしたサイクルが人間の人生なのです。
求める心を、仏教の世界では渇愛と表現してきました。それは「求め続けていつまでも渇いている満たされない心」。
お金がない、認めてもらえない、お腹すいた、愛されない、眠れない、遊びたい・・・だれしも心あたりがあるのではないのでしょうか。
昔はもっと楽しかった、こんな仕事やってられるか、という感情も同じく反応しているからです。
「求めても満たされるとは限らないのが心である」ということを理解するべきだというのがブッダの教えです。
まず、心は求めつづけるものと理解することが大切です。それを理解することができた結果、心の渇きは収まり、人生はそういうものだと大きな肯定が可能になるからです。
「この反応の理由は承認欲だ」と正しく理解する
特に人間だけにある承認欲。「学歴」「年収」「評価」「モテ」など常に相対的な評価がつきものの現代の人間。私たちを悩ますこれらは、全て自分を認めてほしいという承認欲です。
私たちは、無意識のうちに、他人や社会など外の世界に対して、「認めてくれる事」を求めているのです。
つまりそれが満たされないと周りは「期待に応えてくれない人間ばかり」となり不満や物足りなさを感じ、世の中や周りの人を否定し憤慨するのです。
「他人の小さなことが目について不満を感じてしまう」という悩みの正体は「もっと自分を認めてほしい」という承認欲だったりするということです。
よく、ひとの陰口ばかりいったり、他人を評価したがる人がいると思います。もしかしたらこれを読んでいるあなたも心辺りがあるかもしれません。
では、そうゆうときはどうすれば良いのか。
ブッダの考え方の基本は「まず、理解する」ということです。
「今、自分は満たされていない承認欲があるんだ」
「この不満は承認欲の不満なんだ」
と客観的に理解するように努めます。これができないと、つい反応し、人の目を気にしたり、嫉妬し、舞い上がり、落ち込んだり、動揺だらけの人生となります。
「ある」ものは「ある」と、まず理解することが大切です。
素直に「わたしには承認欲がある」と受け入れましょう。
これまでずっと踠いていた心の渇きの正体を知り、その不満の状態から抜けるのです。
社会や他人、同期や友達、、、彼らに認められることって、そもそもそれが一体何だというのだとクールな思考さえ見えてくるのです。
心の状態を「見る」方法
ムダな反応をおさえるために、心の状態を見るという習慣を持つ必要があります。反応せずに、ただ理解することが悩みの解決に繋がります。では、どのようにそういった習慣をつければ良いのでしょうか。
簡単な3ステップを実際に生活の中で習慣にすることです。最初は慣れないと思いますが、「反応」から抜け出すために、何ヶ月か続けてみましょう。
①ココロの状態を言葉で確認する
「ラベリング」といい、ココロの状態に名前を貼り、客観的に理解するようにしましょう。習慣的に行います。掃除、家族といる時、歩いている時、買い物しているとき、怒っているとき・・・「今自分はイライラしているな」「今掃除をしている」と淡々ろありのままにことなで確認する習慣を身につけます。「今ストレッチをしている」とココロの状態や体の動作を言葉で客観的に確かめます。
「反応」から抜け出すのにラベリングが効果的なのは、マインドフルネスや瞑想でもお馴染みです。最初はなれないと思いますが、習慣にしましょう。
②カラダの感覚を意識する
感覚を見つめ、意識します。ゆっくりと呼吸し、その息が入っていき、出ていく感覚に集中しましょう。最初は慣れないのでじれったい気もすると思います。そういうときは、手を握って開いて、ただその感覚を確認します。
歩行瞑想でもお馴染みですが、歩いている感覚に意識を向けることもおすすめです。今、右足が地面に着いた、左足が地面から離れた、、と感覚を見つめることを心がけてください。
①と②の方法をブッダが生きていた時代ではサティと呼ばれていたそうです。ココロの状態をよく見て、意識することでムダな反応はとまり、心は静まり、深い落ち着きと集中が可能となります。
③アタマの中を分類する
貧欲(とんよく)・怒り・妄想。これらは伝統的に貪瞋痴の三毒と呼ばれ、人間の三大煩悩とされています。
貧欲は「求めすぎる心」により過剰な欲求にかられている状態です。焦りや、人間関係の悩みの多くは期待しすぎた事による貧欲に分類されます。
怒りがあるときは、「今怒りを感じている、これは求める心がつくりだしているあまり根拠のないものだ」と正しく理解する必要があります。
明らかに怒りっぽい人。悲しみ、未練、後悔、挫折、コンプレックス、、、これらを抱えていて放っている人は人生を損しているのです。一度きりの人生なのでとてももったいないことですよね。怒りがあることを正しく理解し、洗い流すことが大切です。
妄想は、つい余計な事を考えてしまったり、落ち着いて物事に取り組めない状態です。そういったときは「今、妄想している」とラベリングしてリセットしてください。ふと目を開けてみてください。頭の中で起きている未来への不安や執着などそこにはなく、今目で見ている視覚がそこにあるはずです。
息をする感覚や視覚、カラダの感覚に意識を向けます。
感覚に意識を集中させる練習を積んでいくと、妄想から抜けることができるようになります。
解脱
解脱(げだつ)という言葉をご存知でしょうか。ブッダが到達した境地のことです。自由や解放という意味です。
ブッダの教えとは「正しい理解によって、人間の苦悩から自由になる方法」のことです。
正しく理解し、自由な心を取り戻し、心の渇きを解消して、「これでよし」と思える生き方を取り戻すのです。
第2章 良し悪しを「判断」しない
なぜ人は「判断」したがるのか
「あの人は〇〇らしい」「自分が正しい!」「だからあいつはこうなんだ!」「どうせ自分なんて」などといった判断や、「こうでなければいけない」という思い込みは、不満、憂鬱、心配事など多くの悩みを生み出します。
では人はなぜ判断するのでしょうか。2つの理由があると本書には書いてあります。
まず、判断し、わかった気になることで気持いいと感じているのです。結論をだし、安心しているのです。判断すること自体が気持ちよいと感じているのです。
もうひとつは、判断する事で認められた気分になるということです。人の不満やミスをしてきして、同調してもらったり、あなたは間違っていないといわれると、自分が正しいと承認欲を満たせるのです。
そこに快楽があるからみんな判断する事に夢中になるのです。
「判断」を手放すために
判断はアタマの中にしかない「妄想」であることを理解してください。あなたを悩み苦しませるその判断はただの妄想なのです。
でも、簡単に手放せない、だから苦しむというかたも多いと思います。
ブッダの教える心を洗う方法を実践していくのです。
新しい生き方を始めていくのです。
苦しみを取り除いていくその方法を原始仏教では「道」と表現しています。
「苦しみを生んでいる判断を手放そう」と決意し、実践すること。それが「道を生きる」という生き方です。
苦しみから自由になる事を人生の目標にすべきです。過去も判断も手放し、ラクになり、判断による苦しみなどなかった頃のように「自由な心」へ向かっていくのです。
第3章 マイナスの感情で「損しない」
人は感情に悩まされます。ストレス、怒り、失敗、喪失、不安、、、これらの心の同様が心の反応である「感情」です。感情に振り回されて損をしないためにはどうすればいいのでしょうか。
反応しないことが最高の勝利
ブッダの思考は超合理的です。人生の目的を「苦しみのない心」としている以上、「反応して心を乱される事は無意味である」と、はっきり知っていたのです。
インドの最上位カーストのバラモンのひとりが(ブッダは下の階級のクシャトリア)ブッダに誹謗中傷をあびさせた時の話です。
「私はそれ(罵りや怒り)を受け取らない。あなたの言葉はあなただけのものとなる。そのまま持って帰るが良い。」と普通腹をたて逆上しそうな状況でも、無反応でした。ただ理解するだけということを徹底していたのです。
仏教における勝利とは相手に勝つ事ではなく、「相手に反応して心を失わない」ことなのです。
相手のことを判断しない
相手との関わり方の原理原則はこちらです。
- 1.相手のことを「判断」しない
- 2.過去は「忘れる」
- 3.相手を「新しい人」と考える
- 4.「理解し合う」ことを目的とする
- 5.「関わりのゴール」を見る
1.相手のことを「判断」しない
判断はいつも自分自身の承認欲、「慢」と繋がっています。相手を判断することで自分は正しいと確認したり優越感を感じます。
苦しみを引きずることになるこうした相手への判断などのしなくていい判断は、しなくていいのです。さらに「相手と理解し合える可能性」も減らしてしまいます。
2.過去は「忘れる」
よくパートナーとの口喧嘩のときなどのあの時こうされた!こんなことをされた!など過去の話を掘り返してしまったり、掘り返された経験はあるのではないでしょうか。
過去を引きずるということは「記憶に反応している」状態です。その時あなたがイライラしている原因は、すでに最初の喧嘩の原因にあった相手ではなく「記憶」なのです。
そうしたときはその記憶への「自分の反応」をみるのです。「これはただの記憶」「反応している自分がいる(相手には関係ない)」ということを冷静に理解しましょう。
3.相手を「新しい人」と考える
仏教では人も心も”無常”-うつろいゆくもの-ととらえます。心理学の一説では心は1日で7万個もの想念を思い浮かべるそうです。
人は毎日お互いに変わり続けているのです。過去にされたことや言われたことはこちらの「執着」。
職場や学校、家庭で会う人も毎日「まったく新しい人として向き合う」こともあなたが選べるのです。
4.「理解し合う」ことを目的とする
人との関わりでは「反応しないこと」が大事だと学びました。これは相手に無関心でいたり、我慢することではありません。
配慮ややさしさからじっと耐えている人も多いとおもいます。
ただ我慢とは、正確には相手に我慢しているのではなく、「自分の怒りを抑え込んでいる状態」です。すでに湧いてしまった怒りを押し殺し続けることは病気にもなりかねません。
こうした時は、「心の前半分を相手への理解に、後ろ半分は自分の反応を見る」ことに努めて反応したがる心に打ち勝つのです。
そして理解を共有することはとても大切です。あなたの感情や思い、考えを相手に理解してもらうように、「わたしはこう感じている」「こう考えている」ときちんと相手に伝え理解してもらうことを目的にすえるのです。
もし相手が理解しようとしなかったり、聞こうとしないなら関わる意味のない相手なのかもしれません。一方的な苦痛に耐えなければならない関係は存在しないはずだからです。
相手が理解してくれる可能性があるなら、やめてほしいことは「やめてほしい」ときちんと伝えるのです。そこまでああなたにできることです。
相手がどう受け止めるかは相手の領域です。
大切なのは「理解し合うことが大事」という理解です。時間がかかるものなので、いつか分かり合えるという楽観、信頼を持って向き合うのです。なお、その信頼するということは、相手は関係なく、こちらの選択です。
5.「関わりのゴール」を見る
相手と苦しみあったり、憎しみ合うことは人生の目的にはなりません。それでも人は苦しめ合う関係を繰り返します。関わる目的を確かめようともせず、ただ自分の期待、思惑、都合、要求、過去へのこだわりに執着し、「正しいのは自分、間違ってるのは相手」と思い続けます。そこに意味はあるのでしょうか。
ブッダが語った「執着こそが苦しみを生んでいる」という理解に戻るべきです。
苦しめ合っているという事実に目を醒ますことが大切です。
「苦しめ合うために関わっているわけではない。理解し合うために、お互いの幸せのために関わっているのだ。」
第4章 他人の目から「自由になる」
人にどう思われているのだろう、嫌われているかもと、オドオドしたり他人の目が気になることがあると思います。そうして悩ましているものの正体も承認欲なのです。
①認められたい(自分の価値にこだわる)欲求がある→②その欲求で反応して「どう見られているのだろう」と妄想する
「承認欲がつくりだす妄想」これが気になる心理の正体です。
どう評価されているのだろうなどといったそれらの不安は、自分の価値へのこだわりが生み出す妄想です。過剰になると「思い込み」といわれるものになります。
どんな思いも「妄想にすぎない」とはっきり自覚することです。際限のない妄想は脳のデタラメです。真に受けて反応しないように肝に命じることが大切です。
「妄想は妄想にすぎない。何が思い浮かんでも反応しない」という覚悟が大切です。
ブッダの思考法では、確かめようのないことは放っておきます。妄想に意味をみいださないのです。「前世」「死後の世界」など確かめようのないものは追いかけません。苦しみを解くのに必要がないからです。
「妄想は妄想にすぎない」
「妄想には際限がないし、根拠がない」
「私はこれ以上、妄想を追いかけない」
このように妄想への向き合い方を確立してしまうのです。
過去の記憶や怒りの解消法
外で嫌なことがあって家族に当たってしまったり、過去の挫折に対する怒りがふとしたときに火をついて怒鳴りちらかしてしまったり、いじめられていた日々の記憶が尾を引いて人前で緊張(反応)してしまう、これらも心の反応です。
1.よく気づいて、反応しない
どうしても過去の記憶が出てきてしまう時は、過去の怒りがまだ残っていると自覚することが大切です。
こうした時は「これは記憶にすぎない。幻にすぎない。」と口に出し念じます。「記憶、記憶、記憶(にすぎない)」とラベリングを繰り返し反応から抜け出すのです。自分を責めたりせず、「自分の中に怒りがまだ残っている」とただ理解するのです。
「心のクセ」「心のビョーキ」と割り切り、出てくるたびに気づくのです。
きづきは手放すことのきっかけになります。いつまで心のクセがでてくるのだろうと観察につきあってあげることにするのです。
2.感覚を意識する
泣きわめく幼い子供が、飴玉を口にいれたとたん機嫌がなおるのは、「感情」に反応していた心が「感覚」への反応に切り替わるからです。
大人も運動や入浴など、体の感覚に意識を向けることは有効です。
3.反応の源を断つ
その関わりが悩みを長引かせている理由なら、きっぱりと距離をおくことも大切です。
関わりを断つというのは関係をやり直すのに必要なことでもあります。
過去の記憶にも、現在の相手にも反応しなくなるまで距離をおくことです。人の心は無常で状況もやがて変わります。たとえそれが肉親など複雑な関係でも、「いずれは理解し合えるだろう」と大きくかまえるのです。
比較するのは非合理的。もう比べない。
「自分のことに集中する」のが一番とわかってはいても、他人のことが気になって自分のことが疎かになってしまうということはよくあると思います。
同級生や友達の年収や結婚、同僚の成績や出世、さらには赤の他人のデータであるはずの平均年収や見た目や学歴や評判など。
どうしてこんな人は比較したがるのでしょうか?
答えは簡単で自分の承認欲を満たしたいのです。「自分はすごい」「自分の方がマシ」と自分の位置を測り、安心したいのです。
まだ自分を肯定しきれず、納得できていないから、自分の価値を確認するために「比較」します。自分を「よし」と判断したいのです。
しかし以下の3つの理由で比較は非常に不合理な思考なのです。
- 比較という心の働きは実在せず、バーチャルな妄想にすぎない。よって手応えや実感を感じられない。
- 比較しても自分が変わるわけではない。だからいつまでも安心できない。
- 比較で安心を得たいなら絶対・完全に有利な立場に立たなければならないが実際に不可能である。だからつねに不満が残る。
それでも比較に流されているのは、妄想に慣れているからです。現実は変わらないけど較べることはすぐにできる。たまに優越感をもてることもある。だから妄想という暇つぶしをしてしまい、つい較べてしまうのです。
自分と他人を較べ、劣っているとも優れているとも考えることはしてはいけません。それらは新たな苦しみを生むからです。
では、不合理な「比較」をやめ、私たちは何をやるべきなのでしょうか。
目的を叶える正しい努力
比較から足を洗い、承認欲をみたしたいなら、以下三つの条件がある「正しい努力」をする必要があります。
- 認められたい気持ちをモチベーションにして、今の仕事・生活を「改善」していく
- どんなときでも「自分のモノゴトに集中」する
- 「自分で納得できる」ことを指針(基準)とする
承認欲を大いにいかすためには、「目的」とするのではなく、「モチベーション(動機)」としてのみ利用します。他人が認めてくれるかどうかは、他人が決めることであって、自分でコントロールできるものではないからです。
他人の評価を目的にしてしまうと、「他人の目が気になる」心理に突入してしまいます。
自分の言葉や思い、今できること以外は妄想です。ブッダは妄想を目的とはしません。
「改善」「集中」「納得」を追求するのです。
正しい努力とは「人に認められる」「成果をあげる」といった外部のものを目標にすることではありません。「集中」「充実感」「納得」といった内面的な動機”快”を大切にし、作業を続けることです。
自分のモノゴトに集中する方法
他人の目や周りがやっていること「外の世界」を忘れ、自分のモノゴトに集中し「納得できる」ためには善の智慧を借りるとこのような手順となります。
- 目を閉じる
- ムダな反応をリセットする
- 目を開いて、目の前の作業に一心に取り組む
これらのステップを踏んで「集中モードの作り方」を実践しましょう。
目を閉じて、自分の内側をみつめます。あまりにも外の世界を気にしすぎな私たちはいつもそわそわと落ち着かない状態になっています。そして心というものは、何かに触れると必ず反応するものです。目を閉じて心の内側だけを見つめるのです。
次に30秒~15分くらいを目安に時間を決めます。最初は15分タイマーがおすすめです。次に心の状態を見つめましょう。不満や緊張やモヤモヤなど雑念の粒子のようなものが漂っているかもしれません。それらはすべて「あってよし」。ただ認めましょう。すると、心が浄化されてムダな反応がリセットされます。静かでクリアな状態にします。
時間がきたら、目をパッチリ開けて目の前の作業に一気に取り組みます。スタートダッシュが肝心です。集中がきれたら1からやりなおしましょう。
取り組むときは「無心」でひとつのモノゴトに心を尽くしてやるのが原則です。
ムダな反応が浄化され、心はクリアになり「集中」による充実感と喜びが得られます。そのあとに残る実感が「納得」です。
「道の途中」-自分のモノゴトに取り組むプロセスそのもの-に納得できるようになると、誰かの評価や人の目など、どうでもよくなるのです。
自分のなすべきことがわかっている。心をリセットし集中する。やり遂げた後に、納得が残る。それだけで完結です。
第5章 「正しく」競争する
競争、それはこの世界では避けられないものです。負けた時は敗北感や劣等感が残る競争はいつも私たちを悩ませます。
生命はみな欲を満たすことを求めています。さらに人間は衣住食の他に、「承認欲」を満たす記号、つまり地位やブランドや学歴や容貌やキャリアをみたすことを求めています。しかしこれらの記号には数に限りがあり奪い合い、勝ち取ることが勝利です。それこそが競争の始まりです。
そして、勝利し、その記号を満たしても、もっと上を目指したがる”貧欲”が心に有る限り、新たな競争に参戦していくのです。
競争するという心理の底には「何かを手に入れれば満足できる」という原始的な欲と「手に入れたものだけでは満足できない」という貧欲(心の渇き)が存在しているのです。
本来必要のないバーチャルな競争の代表例が勉強です。
大人たちは、子供の価値を測るものさしとして点数や偏差値や順位をつきつけてきます。
①認められたい気持ちがある→②認められるには、成績を上げなければならない→③だから成績を上げることを目標とする。
成績をあげるという目標がバーチャルなものだから「なんで勉強しないといけないの?」と多くの子供は気づきます。楽しくもなく知的欲求を満たせるわけでもないからです。大人になって自分で勉強するのは楽しいのは”快”があるからです。
それでも勝てば、プライドや承認欲をみたせるため、子供たちは勝利の価値を見出し、競争に参加しているのです。
競争の前に必要な準備
では競争にどう向き合うかというと、多くの人は次の二つが思い浮かぶのではないでしょうか。
- 競争に参加し、勝利を目指す(世の中そんなものだと割り切る)
- 競争から降りて、違う生き方を目指す
ブッダの思考には「大切なのは心の持ち方である」というものがあります。つまり、競争という現実を否定せず、その中で自分はどんな心を保つのかを確立しようという思考です。
すると第三の選択肢があることがわかります。
3.競争の中を違うモチベーションで生きる
という「勝つ」動機以外で競争社会という現実を生きていくことです。
目を閉じて暗闇の中で自分の思いを見つめます。「負けるものか」「自分の価値を認めさせてやる」「見下されたくない」。勝利への欲求、プライド、自尊心、虚栄心、見栄、遅れを取っている、劣っている、負けてしまう、自分に価値などない、、こういう思いが暗闇の中に湧いているかもしれません。
今見えているそれらの思いはすべて「妄想」です。
ではパッチリと目を開け、目の前の光景をよく見つめてください。先ほど浮かんでいた妄想はどこにも存在しません。「なんだ、今考えていたものは妄想(まぼろし)だったのだ」と、はっきりと自覚してください。
私たちが目覚めるべきは、競争という現実、社会の現実に対して日頃「どんな心で向き合っているか」ということです。自分の心の状態、どんな心で外の世界に対峙しているかを理解することです。
目を醒まそう
競争に勝利しても「もっと勝ちたい」「誰にも負けたくない」とどこか安心できず、負けたと思えば未練にかられ続けます。
きっとブッダなら「そのままでは、けして満たされることはない。満たされないまま人生を終えるのは、正しい道だと思いますか?」と問いかけてくるはずです。
目を閉じるのは、反応しないため。
目を開けるのは、妄想から目を醒ますため。
競争という妄想から抜け出し、心の自由を取り戻していきましょう。
正しい動機を用意する
「競争の中を違うモチベーションで生きる」と言われても動機の見つけ方がわからないということもあると思います。「競争の中にあって、競争に苦しまない生き方」をするにはブッダが教える、人生の大きな四つの心がけを知っておく必要があります。
慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)
- 慈 – 純粋に相手が幸せであるようにと願う心
- 悲 – 相手の苦しみや悲しみを理解し共感すること
- 喜 – 相手の喜びや楽しさを理解し共感すること
- 捨 – 手放し反応しない心 欲や怒りという反応に気づいてストップをかける心がけ
世間ではこれらをまとめて「愛」と表現しています。
残念なのは、この四つの心がけは普遍的な”心の使い方”であるにもかかわらず、学校や会社でも教わる機会はありません。その結果、欲望、怒り、妄想を持ってテキトーに反応して悩んでいる人生をほとんどの人がいきています。
仕事では自分の評判や成果や収入ばかりを追いかけ、周囲の人や組織の利益は後回し。ひとりになれば自分のプライドや優劣をやたら気にし、怠惰と快楽に耽りながらも心はいつも満たされません。
過去の失敗や将来への不安。「このままでいいのだろうか」と漠然に考えます。
心は渇き、焦り、でもどうしたらいいのかわからない。こんな苦しい現実を生ききているのです。
いつでも自分自身に「よし」と言える、納得のいく生き方をするにはどうすればよいのでしょうか。
ブッダが教えるのは心を理解し、反応に気づくこと。そして「正しい動機に立つ」ことです。慈悲喜捨という四つの心がけを、心の土台に、人生のモチベーションにすえるのです。
心の持ち方を知ることで、反応の中身が変わっていくのです。「勝った自分」「手に入れた状態」を思い浮かべてもそれは妄想です。本来の自分を見失い、本来のよき心の状態を忘れてしまうのです。多くの人が“正しい生き方”を忘れているのです。目を醒まし、自らの反応をみて、自分を苦しめる反応を解消し、自由になるのです。そのとき、競争という現実の中にあって、競争に苦しまない生き方が可能となります。
「負けた」という思いから自由になる
もともと勝ちも負けもなく、それらは欲と妄想が作り出した幻だと理解します。これは慰めではなく、自らの心を正しく理解した時に、はっきりと腑に落ちる真実です。
現在進行形の「嫉妬」は過去形になると、「負い目」「コンプレックス」「ルサンチマン(怨み)」となり、いずれにしても心を苦しめます。
執着についてブッダの言葉を振り返ります。
人は三つの執着によって苦しむ。
①求めるものを得たいという執着(だがかなわない)。
– サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ
②手にしたものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。
③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。
嫉妬の正体は、認めて欲しいと思う①と、認められている相手への③の二つの執着です。承認欲が満たされない怒りを、相手に向けている状態です。三毒にいう怒りの一種であるといえます。
その怒りの原因は相手ではありません。認めてもらえないという自分自身の承認欲の不満にあるのです。これは八つ当たりと同じです。相手に思考を向けるのは間違いで「自分が認められるためには、何をすべきだろう」と考えることが筋なのです。
外の世界を見ずに、自分の内側の動機や、今自分がもっているもの(できること)を見ることからはじめる「正しい努力」をするべきなのです。
相手は関係ないと考え、怒りから降りるのです。他人と同じになりたいという妄想からも降りていって、完全に嫉妬から降りるのです。
認められたいという気持ちがあるなら「自分には何ができるだろうか」「自分にできることを十分にやっているだろうか」と考えるようにするのです。
最終章 考える「基準」を持つ
正しい心に「戻る」。何度でも
心はいつもさまよい満たされないものです。心が反応し続けるかぎり、この満たされなさや苦悩は続きます。心の渇き、憤懣、落ち込み、不安、自分を受け入れられない心、生きる辛さは新しい心を持たない限り、癒されることはないでしょう。
だからこそ、心に”よりどころ“を持つべきなのです。
それは、「自らの心の土台に”正しい生き方”をすえます」という自らへの約束や誓いです。
正しい生き方はたとえばこのようなものです。
- 正見(しょうけん) : 反応せずに正しく理解すること
- 清浄行(しょうじょうぎょう):三毒などの悪い反応を浄化すること
- 慈悲喜捨の心で向き合うこと:人々や生命の幸せを願うこと
つい反応してしまう自分の1歩手前におくべき「心の土台」、よりどころなのです。それは川の中の足場と同じように、しっかりとそこに立つところがあれば流されることはないのです。
「まずは自分を頼れ」
多くの人はよりどころを、幸せになる答えは「世の中」にあると、金、もの、地位、学歴など世俗の世界に求めます。心の内側ではなく。
ですが、その求める心が過去にもたらしてきたものは、「自分には何かが足りない」という心の渇きでした。
世界は人の煩悩を刺激、利用し回っているのです。だから人は求めては失望するという繰り返しの心の輪廻を抜け出せないのです。
その真実にこそ気づくべきではないでしょうか。
現代仏教の教え(「サンガ(僧侶・長老の集団)への帰依(きえ)」)と異なり、ブッダは「自分自身」と「正しい生き方」のみをよりどころにし、他のものには決してすがるなと伝えていたそうです。「汝はもう何ものにも頼る必要はない。正しい生き方(ダンマ)をよりどころにして、他の移ろうもの、人間の思惑や言葉にすがらないようにせよ。」と。
目指すゴールは「最高の納得」
人は常に何かを追いかけ手に入れられない現実、失われる現実に悩んでいます。そうした「現実」の中にあって、「現実」にのまれない心を持つのです。
苦悩を超えた「納得の境地」にきっとたどり着けると考えます。主観的な「納得」は自分次第なのでいつどんな状況であっても得ることができます。
人生の方向性を「納得」とするなら、あとは時間をかけて近づいていけばいいのです。「自身が納得できること」を基準にすれば外の世界に振り回されることは減っていくでしょう。
それでも、ままならない現実やわかりあえない人間は現れるでしょう。
そういうときこそ反応せず、目を閉じ、心を見つめて「正しい心がけ」に戻るのです。
現実を変えようとせず、闘おうとせず、続いていく日々の中で自分の中に苦しみを増やさない「納得できる」生き方をしようと考えるのです。
自分が「最高の納得」にたどり着くための正しい生き方、考え方、心の使い方が私たちには必要なのです。
自分の人生を「信頼する」
心によりどころを持ち正しい方向性を見据えること。こうした道(生き方)を確立することが生きていくことで何よりも大切です。
「この道を歩んでいけばいい。きっと納得にたどり着ける」と人生を信頼できるようになります。
「人間が抱えるどんな悩みや苦しみもきっと解決できる、必要なのはその方法である。」というのがブッダのメッセージです。その方法とは心の使い方です。
正しく理解し、苦しみの反応をリセットし、人生に最高の納得をもたらす生き方のことです。
ときおり反応に振り回されて悩みを抱えてしまっても、”道”を覚えていれば安心してそこからやり直せます。
そうした生き方ができるようになると人生に希望が見えてきます。人は”道”にたったときに、人生を”信頼”できるようになるのです。
「大丈夫。きっとたどり着ける」
「この生き方に間違いはない。いざという時はこの心がけにもどろう。」そう思えることが最高の答えということです。
人の心は、外の現実に支配されない”幸せの聖域”です。あとはその心にどんな”思い”を置くかだけです。
「最高の納得」にたどり着くために。